昭和44年05月02日 夜の御理解
テレビで何か、宗教映画ではないけれども牧師さんのあの、取材にしたテレビがあっておりましたが、その中にこんな事を言うところがあります。台詞の中に。「自己を空しゅうする、自己を犠牲にする、そこを基点として、なされるのが宗教だ」自分というものを犠牲にする。そこを基点として成り立つのが、宗教だという意味のことを言うとります。これはキリスト教的、ま、表現でしょうけれども。
金光様のご信心も、やはりそうですけれども、やっぱちょっと違うところがあるですね。「教祖は日に日に生きるが信心」と仰っておられる。「日に日に生きるが信心なり」と言うことはどういうことかと言うと、日に日に新に生きるということは、日に日に自己というものを空しゅうしていかなければ、日に日に生きることは出来ないと。ね。自己を空しゅうすると、自分というものを空しゅうするというところからしか新たな命とか、新たな生き方といったものは生まれてこない。ね。
そこから私はあのしかも例えばキリスト教的に言うと、やはりあのキリスト自身が結局ああいう、私達から言うと残酷だというかね十字架上に上がられて、そして皆の罪のあがないの為に自分という命を落とされるわけですけれども。ですからやっぱ今日の映画なんかでもそうです。最後に皆を助けるのですけれどもね。その最後にその牧師とそれに他の友人の人たちがその、なんかね亡くなっていくという映画でした。
ですからそこんところがですね、やはりあの教祖とか宗祖と言った様な人たちの信心がやはり信心の上、信者それを信奉しておるものの上にもそのような風に現れるという事を考えますですね。とにかくあの、金光様のご信心は、どこまでも教祖のあられ方がですね、私共の生活の上に現れてくる。それは日に日に生きるが信心である。だから日に日に生きるが信心ということは、自己を私は空しゅうすることだと。
けれどもそれは決して犠牲にする事じゃない。例えばあの、奉仕の生活といったようなことでも言うけれども、奉仕の生活といったようなものが中途半端なものではないね。教祖の信心は、ね。もういうならば徹底した奉仕の生活なんです。ね、少しばかり奉仕するといったようなもんじゃないんです。それはどういうこと、自己を空しゅうするというのですから。徹底した奉仕です。
そこから新たに生きるというか、新たに生まれてくるというものの頂けれる信心なんです。今日から、松栄会の方達、四日までですか、入殿をなさるそうですが。そういう意味合いでですね、いよいよ自己を空しゅうする稽古、これを本気でなさったらいいと思うね。皆さんが会の発会にあたってからご理解を頂かれたように、とにかくあの、飛行機上からパラシュートを抱えて飛び降りる元気と。
是は自分ももうその一瞬自分を空しくしておるのです。けれども空しくしておるけれども次にはです、是が開くというおかげになっていくのが信心。ですから折角なさるなら私は厳格にその何ちゅうですかね、そう言う様な例えば松栄会精神とでも申しましょうかね、そういう精神がもう何日間かの間にはっきり現れてくる様な精神、そういう心掛けの下に信心をなさらなければ、松栄会の方達の入殿の値打はないと思う。ね、
まだ例えば、入殿しておるけれども、家のことがまだ気になっておるということではだめ。だから三日間なら三日間、本当に自己、自分というものを空しゅうしての信心の稽古でなからないかん。ね、そこから日に日に生きるとはこんなことだなと、またはそこから生まれてくるいわゆるおかげという。ね。というようなあの例えて申しますと、佐田さんがあの佐田さんのお店の大変大事な時期に丁度あの時菊栄会で全部自動車で、銘々の自家用車で御本部参拝致しました。
どげん考えても普通からいうたらとても佐田さんがおられないということは出来ない程しの問題をひっかかえてからでしたけれども、まあ御本部参拝をされました。それがもうどういう風なおかげになってきたかというと、もう結局空しくしていかれたんですね。いわゆる落下傘を抱いて飛び降りるようなことでした。もしあの時に佐田さんがこっちに残っておられたらもう、もうそれこそあの、佐田の本店と一緒に佐田さんの家も皆無くなってしまわなければ成らない様な運命にあったんです。
自分のたとえば財産のほとんどになんていうですか、あの保証に出しちゃる。ところがですね、いよいよん時になったときに、その判が一つたりなかったと。それでもう御本部の方へどんどん電話を掛けられましてね、掛けられたけれどもとうとう御本部中の旅館に電話を掛けたけれども、久留米の控え所がわからなかった。ね。そしてその最後に控えにかけられたですけれども、私共がもう出発しておる後だった。
とにかく飛行機ででも帰ってくれというその電報であった。その時に家におるならどうでもやはり判を押さなければならない立場にあったんです。帰ってきたらもう締まえておった。そのときには山口の萩に一晩一泊して帰った時ですから、もうその辺のですね神様の演出ていえばそれまでですけれども、ひろさわさんの言われたのですかね、いわゆるその自分の考えとか、思いとかと言った様なものを。
無くし空しくしてからいかれたというところにですね、そういうおかげが受けられる。いわゆるだから御道の信心はどこまでもその、それを言うとね、いかにも条件のごとあるけれども、その飛び降りる一瞬が大事なのである。その時にはもうままよである。開かんなら死ぬるのだと。そこにその自分を空しゅうするということになっていく。そこに次の瞬間にはそれが開くという。
二分の徳を受けようと思えばままよという心、ままよという心が自分を空しゅうすることなんです。そういう御道の信心のぎりぎりのもの、いうならば日に日に生きるが信心なりと仰せられるが、ただ日に日にこうやって、お生かしのおかげを頂いておるということが生きるじゃない。その教祖が仰る日に日に生きるが信心と言う様なその生き方というものは、日々を自分というものを空しゅうした生き方の中からしか。
その日に日に生きる。例えばなんというですかね、喜びというか、そう言う様なものは生まれてこない。そしてここに思わせて頂くことはそんならいつも自分を空しくしきっておるという、もうその大変難しくあるけれども、金光様のご信心はそうじゃない、けれども例えばです、ね。私が頂いておる御教えの中に「楽をしようと思うな、楽はしょうと思うなと、楽はさせて頂け」というところが素晴らしいでしょうが。ね、
自分から楽をしようと言った様な考えかたは全然捨てておくんだと。そして、させて頂けということなんだ。ね。神様はさせにゃおかんという働きがあるんですけれども、あることをそうじゃいかんけれどもね、させて頂くときに十二分に楽させてもらったらいいのです。それが空しゅうする事であり、それが次の瞬間には、いわゆる楽はせんと思や、させにゃおかんという働きを受けていくのが御道の信心だと。
ですからそういうその楽はせんぞというその決心ですか、ね、パラシュートを抱いて飛び降りるというその、元気な心というですか、そういうところが私は繰り返し稽古されるところからでっすね、私は御道の本当の信心が分かる。日に日に生きるが信心。日々が真実心の底から有り難い。今日私末永さんに丁度ここにおりましたから、あの話しました事ですけれども、私はあのここで、もう人が言うても本当とは思わんと。けれどもほらあんたがここで見ておるから本当と思わにゃおられまいがと。ね。
という意味のことをまあそういう機会を捕らえてから、お話をするんですけれども、今日もやっぱりそういうことですね、お話させて頂いたのですが。もう本当にこの神様ばっかりは、その気になればじょうけに及ばんですよ。おかげを下さることは。だからそこんところをしっかり自分のものにしていくということはです。結局自分というものを空しゅうするという事。自分というものを例えて今日のその映画の台詞の中から言うとです、自分を犠牲にするというところがその宗教の基点だと。
そこから宗教は生まれてくるもんだと言うふうに言っておりますがね。金光教の信心も、ま、よく似たようにあるけれども、その先が違う。ね。自分を犠牲にする、ほんに徹底して空しゅうする。そこから、頂けれるものがある。そこから日に日に生きるが信心になる。日に日に生まれてくるもの、ね、その生まれてくるもの、それは勿論おかげも。そのおかげに触れる時にです、いわば人ひ言うても本当と思わんじゃろうのうと末永さんと言うて私が話したようなおかげになってくるんです。ね。
そこんところが私は金光様のご信心の有り難いところだと。ね、だからどうぞあの自分を犠牲にするという事を基点というのじゃなくて、自分を空しゅうするとね、という所が基点になって所謂、ままよという度胸がいつも出せれる様な稽古が私は本当は信心の稽古だとこう思う。そこに十二分の徳が約束される。その十二分の徳にです、どんなに考えても本当とは思われない様なおかげがまあ、約束されておるわけです。
今晩松栄会の方達に対するご理解のようでしたが、どうぞそのそういう一つ精神の元にね、ただ好いたもん同士の何日間かの集まりと言った様なものではなくて、ね、それはいいのです。けれどそこに流れるものは、どこまでもほんとに自分を空しゅうする稽古を三日間させて貰うんだと言う様な所からですね、一つ信心の稽古を本気でなさらにゃいかんと思うですね。
どうぞ。